乙護法堂

背振山の守護神『乙護法善神(おとごほうぜんじん)』をお祀りしたお堂を乙護法堂といいます。
背振山信仰の中心地、中宮の【霊仙寺(りょうせんじ)】にあります。

乙護法善神は背振山の守護神
左手に独鈷杵(とっこしょ)、右手に杖を持ち、たくさんの田螺(タニシ)を乗せたような頭をされていることから『田螺仏(たにしぶつ)』とも呼ばれています。
古来から田畑の豊作や虫除けにご利益のある仏様として親しまれていました。
現在の乙護法堂

現在の乙護法堂

 乙護法堂の建立については、最澄上人(天台宗宗祖)によるといわれています。平安の頃、最澄上人は中国に渡る際に、海上安全を祈り背振山に登山されました。そのとき、乙護法善神が出現し、唐へ一緒についていったといわれています。
日本へ無事にもどられた最澄上人は、背振山の中宮に講堂(僧侶の勉強の場)・龍樹堂(龍樹菩薩を祀るお堂)・乙護法堂を建立したといわれています。
現在のお堂は、嘉永5年(1852)十代藩主鍋島直正公によって再建されたもので、霊仙寺に唯一残る貴重なお堂です。<吉野ヶ里町文化財>

背振山縁起の説話

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遥か昔、インドの南天竺国に
徳善大王(とくぜんだいおう)という仏法を篤く敬う王がいました。
大王には優れた14人の王子と産まれたての15番目の王子がいました。
ところが、15番目の王子が、生後7日にしていなくなってしまいます。
悲嘆に暮れた大王は、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)というインドの偉いお坊様に頼んで、神通力で探してもらうことにします。
すると、龍馬に乗って背振山に飛来し、お坊さんの修行を助ける護法神となって活躍している王子を見つけました。
龍樹菩薩が、このことを大王に報告すると大変喜び、大王はお后(弁財天)達を引き連れ、背振山へと赴き、王子と再会します。
以来、大王達は背振千坊の守護神になりました。
15番目の王子は「乙護法善神」として中宮に祀られ、父の徳善大王は「不動明王」として下宮、母のお后は「弁財天」として上宮に、それぞれお祀りされています。
 

背振千古の伝統行事

毎年2月13日『背振大権現(弁財天の御神体である上宮嶽)』に門中寺院総出仕で「大般若経転読会」を奉修して家運繁栄を願います。
この法要は『修正会(しゅしょうえ)』といって、背振千古(一千年以上続く)の伝統行事で、多くの善男善女が福を求めて参拝されます。

 

高僧に仕えた使役神

乙護法善神は、背振山と関係の深い性空上人や皇慶阿闍梨といった高僧に仕え、使役した式神といわれています。
庶民からは、上宮の弁財天を水の神、中宮の乙護法善神を五穀豊穣の神として信仰されていました。
この背振山の乙護法信仰は、性空上人を通じて書写山や阿蘇山にも伝播しています。
 

性空上人とは…

天暦元年(947)より19年間、背振山に住して坊舎を再建するなど、多くの功績を残された背振山中興。のちに、書写山へ移り「圓教寺」を開山された高僧である。
 

皇慶阿闍梨とは…

性空上人の甥で、比叡山東塔南谷井坊に住んでいた天台密教谷流の流祖である。延殷とともに背振山に登り、一夏修行を行う。
 

乙護法善神のご利益
◎災難除け ◎五穀豊穣 ◎田畑の虫除け ◎学業成就