背振山修学院 | 記事




  背 振 山 麓 坂 本 の 修 学 院

背振山開創1300年祭『背振千坊まつり』平成21年己丑

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背振千坊まつり(2009)チラシ〈オモテ面〉

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背振千坊まつり(2009)チラシ〈ウラ面〉

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乙宮(おとぐう)さん 中宮霊仙寺乙護法堂〜

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乙宮(おとぐう)さんとは?

おとぐうさんとは背振山での乙護法善神(おとごほうぜんじん)の別称で、乙天(おってん)または乙護法、乙護法童子とも呼びます。
乙護法善神は、背振山の守護神・山の神、一般には農作物の害虫を除けてくれる神として崇敬を集めていました。お祀りするお堂は『乙護法堂』といい、背振山信仰の中心地、背振山中の中宮の霊仙寺内にあります。
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乙護法堂って何?

乙護法堂の建立については、最澄上人によるといわれています。
最澄上人は中国に渡る際に、海上安全を祈り背振山に登山されました。そのとき、乙護法善神が現れ中国へ一緒についていったといわれています。
日本へ無事にもどられた最澄上人は、背振山の中宮に講堂(僧侶の勉強の場)・龍樹堂(龍樹菩薩を祀るお堂)・乙護法堂を建立したといわれています。現在のお堂は、嘉永5年(1852)十代藩主鍋島直正の代に再建されたものです。
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乙護法善神の由来

印度南天竺国に徳善(とくぜん)大王という王がいて、この大王には15人の王子がいました。ところが15番目の王子が、生後7日にしていなくなってしまいました。そこで徳善大王は、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)に頼んで王子を見つけてもらうことにしました。龍樹菩薩は、日本の背振山に王子がいることを知り、王にそのことを報告しました。すると王は大変喜び、14人の王子を引連れ、龍樹菩薩とともに背振山に赴き、徳善大王は背振山の鎮守「背振権現(弁財天)」となったといわれています。(「渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)」の説話より)
乙護法善神の『乙』には、末という意味があり、この場合は15番目の王子をあらわしています。

DSCN1029.JPG阿蘇山西巌殿寺 蔵

乙護法善神ってどんな格好?

背振山の乙護法善神は、昭和初期に仏像の盗難に遭いどういう恰好であったかは不明です。しかし背振山より阿蘇山に「乙護法」が伝わっており、童子形で左手に独鈷杵(とっこしょ)、右手に杖を持つという姿が阿蘇山西巌殿寺に残っています。

新聞掲載記事

西日本新聞

IMG.jpg平成22年5月14日掲載記事

朝日新聞

朝日新聞.jpg平成21年11月23日掲載記事

西日本新聞

西日本新聞.jpg平成21年11月22日掲載記事